街と住民と商店主と建築屋と非住民と.

"平成 28年度 (7年後) 完成の駅 09.10.01, 07:47" from 下北沢南口商店街の白髪爺さん吉田くによしのブログ
http://www.yoshi-kuni.jp/index.php?id=09100001

"小田急下北沢駅の新駅舎案が猛反発される理由" from[絵文録ことのは]2009/10/03
http://www.kotono8.com/2009/10/03shimokitazawa.html

下北沢の再開発についての議論が起こっているようだけど, コメント欄やブコメなどを読んでいて一番不思議に思ったこと.

それぞれ陰に陽に「私たちは〜と考えます」や「常識的に考えて〜でしょ」と言っているように聞こえる. (もちろん全員という訳ではない. 予防線予防線.)
そこで気になったのが, 「私たち」や「常識」の範囲って市町村や100人以上のコミュニティでは各個人で異っているのが普通だと考えているが, それらが対立せざるを得ない状況になったら, どう折り合いを付ければいいのだろうか? 果たして折り合いを付けられるのだろうか?という疑問である.

学問分野としては政治学とか意思決定論みたいな分野に属するのだろうか.


それぞれに「それぞれが思い描く街」があり, 「それぞれが望むところの街の姿」があり, 「それぞれの街の中でのつながり(対人, 対物両方)」がある. もちろん「それぞれ」には, その街に住んでいる人だけではなくて, その街を知っている人, 関わりを持っている人が含まれている.

住民/非住民って分け方で考えると, 「住んでない人は直接の利害が無いんだから, 口を出すな.」って意見がある. しかし, これは発言主が思ってるほど「常識」ではないんじゃないかな? 例えば, 非住民の意見に重心が寄っているのが「観光地」であり, そこでは「観光客という非住民に対して, 街がどうアピールできるか?」を考えて条例などが作られている. (京都が顕著な例じゃないかな.)

また世代という時間軸で分けて考えると, 「自分たちが生まれた世代の姿を保っていて欲しい」という意見も強いと思う. しかしこの意見もそもそも発言主の世代がずれてしまっていては, お互い同意できない意見になってしまうだろう. (かと言って一番のご先祖様を尊重すると, 縄文時代とかになってしまいますので…….)

金という視点で考えると, そこには「建築会社に発注する人」「受注した建築会社」「建築会社の従業員およびバイト」「(地方自治体が発注する場合の)税金」「その工事が完了することで収入が増える人」「その工事が完了することで収入が減る人」がいる. これらの人の間で動くのは金だけれども, その金に付加されているものがそれぞれ異なると思う. それは「コネ」だったり, 「生活費」だったり, 「街が良くなって欲しいという思い」だったり, 「収入が増減するという予想(妄想?)」だったりする. (「税金」の意味については自分は素人だが, この記事の文脈上, それを払う意味を「街が良くなって欲しいという思い」と解釈した. )


これだけずれてしまっている中で, どうしたら1つの結論に向かって進めるのだろうか?

論理一辺倒で考えれば, まず利害関係者を賛成派・反対派の「両派で一致」させ, その利害関係者にとってのメリット・デメリットを「漏れなく挙げ」, 「定量的に検討」すれば答えは出る. しかし, こんなのは机上の空論であってとうてい無理だ. (前文で鉤括弧を付したのは, そういった意味だ. ) また, 議論をこの思考パターン(スキーマとか言うのかな)に無理矢理当て嵌めようとすると, きっと無理が出る.


じゃあ, どうすれば良いのか?上のスキーマの何が良くなかったのか?と言うと, 「人のつながり」を中心に考えたら良いんじゃないかと思う. これだけだと抽象論で, 議論の対象にもならないだろうから, 順を追って説明に努める.

まず自分は「人間はつながりを持ってこそ人間であり, つながりに先立つ個人は無い」という考えを持っているということ. 「認識されてこそ存在がある」というような認識論や「実装ではなくインターフェースをによってモノが特定される」というダックタイピングという考え方に賛同する人なので, 大前提としてこれを述べておく. (じゃないと, 色々不毛な揉め方をするからね. ) 「つながり」っていうのは, それは単純に友情や愛情と呼ばれる正の感情だけではない. 利害関係というドライなつながりや, 恨み辛みといった負の感情も含めてある.
この想いから自分は「街とは人のつながりでできていて, そのつながりがあるから, (心安らぐかは知らんが一応の)居場所となる. 」と考える.

だから, 「きっとこの街が再開発ですっかり変わってしまっても, そこにかつて存在した人のつながりは別の居場所を見付けて移住し, 物理的に別の場所で存在し続けるだろう」と考える. その意味では「再開発してもいいんじゃない?」という, 単なる傍観者の感想も持ってはいる.
でも「その移住の過程できっと悲しいことやつらいこともあるんだろうな」という想像をしてしまうと, そう呑気に思う気にもなれない. 「悲しさやつらさが無ければ幸せなのか?」というとそんなことは無いと思うけども, 自分はそれでも不要な悲しさやつらさを生む必要は無いと思う. (再開発をすることで無くせる悲しさやつらさもあるから, きちんと天秤に掛けなくてはいけなくて難しいのだけれど. )

街が変わっていくのも仕方が無いし, それに伴って人や人のつながりの移住が起こるのも仕方が無いが, 性急な変化で劇的に「人のつながり」を変える/変えさせるのは良くないだろうと思う. 小学生にだって「転校」っていう大イベントがあったり, 中高生に進学っていう区切りがあったり, 大学生に就職っていう変身(せざるを得ないモラトリアムの終了)のときがあったり, 「人のつながりが変化する」って感覚はみんな分かると思う. でもこれらの変化だって抗って主体性が発揮できるなら少しでも抗いたいと, 自分だったら思う. きっとこの「主体性」というところが重要で, たとえ変化に流されてしまったとしても, 主体性を発揮できたことで何かしらの納得を心に持って先に進んでいけるんじゃないかな?

「人間=つながり」と極論してしまえば, 前半で述べたそれぞれの事情の違いは, つながりの違いであり, 対話や議論をしている人のつながの範囲どうしが重なり合っていない状態だと自分はイメージする. ある集団(市町村, 商工会, 学級などなど)に名前が付くと, その集団がまるで1つのモノみたいに扱われるが, 実際はつながりのクラスタ(小島)が緩くつながる島国みたいなものだと思う. この前提に立って議論をするならば, まずは相手の「つながり」を知るべきだし, 知ることで納得できることもあるし, 別の解決方法を見出すこともできるはずだ.


だから, そんな考えに立って議論してはどうでしょう?……と言い放つだけなら, 無責任な傍観者で終わってしまうので, 自分でも実践してみようと思う. 妻へ友人へ会社の同僚へ, つながりを考えながら対話や議論をし, 話がこじれそうになったら相手の見えないつながりが無いか探して, 落とし所を見付けていきたい.
この考えが裏付けられたり, 逆に変わったりしたら, またブログに書くかもしれないし, 書かないかもしれない. さーてね.

# 夜中に書くと変なテンションになるなぁ. 読み返したら「厨二病!」って叫ぶかもな.
## でもそれも含めた記録として, 残す価値はあるかもな.